貨幣展示室 タイコインから

一介の中年オヤジが突然コイン蒐集に目覚め、その時代を捜し歩く。 「古銭蒐集は貴族の趣味である」とはよく言ったものだ、と遅まきながら反省してる・・・・。取敢えず、タイからスタート。

2007年1月28日日曜日

29.今は無き周辺の植民地貨幣 英領その3 


前項マレー半島で名称変更したMALAYAという植民地の貨幣。1939-1952。この間1942-1945まで日本軍の占領下。終戦後、再びボルネオを含めたMALAYA & BRITISH BORNEOという英国領に復活。左は5CENT、中央は1CENT、右は参考までに同時代の英領インドの1/2ANNA。表は3枚ともGEORGE 6世(在位:1936-1952)。左の5CENTは1945まで銀製だったがこの1948のみ銅ニッケル製。中央1CENTは青銅製で第二次大戦直後の混乱がうかがえる。右の英領インドの1/2ANNAは青銅ニッケル製。
1942年2月に日本軍がシンガポールを占領した直後、約1ヶ月にわたって多数の華人・華僑を殺害したとされるシンガポール華僑虐殺事件が発生。マレー半島全体では、日本政府の見解で4-5千人、現地では4-5万人とも言われる犠牲者。当時の日本軍の一部に、中国で苦戦しているのは華人による中国本土への援助が原因でありアジア各地の華人を排除して援助を断とうという考え方があったらしい。日本軍はこの華人・華僑摘発に際し短期間で抗日分子を発見できないため、現地の一将校の判断で「インテリ(眼鏡をかけている、教員・銀行員)だから抗日」が摘発の理由とされたとの証言。千人単位で海岸に連行し一斉に機銃掃射を浴びせたとのこと。カンボジアの「赤いクメール」と同じ発想か。この地域が1963年マレーシアとして独立後、マレー人優遇政策の政府と華僑が大半を占めるシンガポール島住民が衝突。政府が切り捨てる形で1965年シンガポールが独立。独立闘争にはシンガポール共産党が主役を演じたが、独立後シンガポール新政府は一転して共産党を弾圧一掃し開放政策を邁進。
一方で復員しなかった日本兵が各地の独立義勇軍に支援・参戦したため、欧米列強から独立できたのは日本人のお陰との発言も残っているとのこと。ただし華人を除く。

28.今は無き周辺の植民地貨幣 英領その2 



マレー半島にあったSTRAITS SETTLEMENTS(1826-1939)という英国植民地の1CENT貨幣。この植民地は1853年まで東インド会社の管轄地、1858-1867は英領インドの飛地に。1939年にMALAYAという名称に変更。表はVICTORIA女王、裏はSTRAITS SETTLEMENTS・ONE CENT 1885の文字。外寸28.5mm、量目8.75g、銅製。発行年数は1872-1900。ちなみにVICTORIA女王の在位は1837-1901、年齢に応じて貨幣上の顔を変えており今回は前期のもの。また、近代貨幣の中で英国は貨幣の上に国名を記載していないことで有名。大英帝国というプライドとか。

27.今は無き周辺の植民地貨幣 英領その1


近世の東南アジア地域はタイを除きほとんどが欧米列強の植民地となっていた。歴史書では英国とフランスが直接の衝突を避けるためタイを緩衝としていた、当時のタイ国王が独立ために精力を傾けた等と書いてある。この項から暫らく今は周辺植民地の貨幣を紹介したい。欧米式デザインに漢字を混ぜたものが多い。写真は現マレーシアのボルネオ北東部にあったBRITISH NORTH BORNEO(別名SABAH)の1891年製1CENT。発行は1882-1896と1907年。外寸29.2mm、量目8.82g、青銅製、発行枚数不明、Mintは英国Birmingham。表の二人の図柄は当時の現地人の姿か。当地がマレーシア領になったのは1963年、僅か44年前のこと。

26.電話用代用貨幣?





貨幣にしては違和感があったが取敢えず発見次第購入したもの。タイ語の専門書には「その他」として掲載してあったが解説なし。タイ人に聞くと「公衆電話」と書いてあり、公衆電話専門のトークン(TOKEN:代用貨幣)ではないかとのこと。聞いた相手が若すぎたのようで、後で年配の方に尋ねろこととしたい。ちなみに表(下段)には左からTSTの文字。年号は2504年(1961)から2516年(1973)。外寸16.9mm、量目2.70g

25.真偽判定


16項に続き再び贋作について。バンコクはアジアの中でも有数の観光地となっているためか、たくさんの贋作貨幣にお目にかかれる。作っているほうは土産用との認識かも知れないが、販売側の一部では「本物だと保証」してる場合が多い。どこの露店でも数枚は展示している20世紀初頭の中国銀貨の場合、卸元からの購入価格は1枚当り30バーツ(約90円)程度と推測される。ひどいところでは販売側の最初の言い値は2,000バーツ以上から始まることが多い。タイのDvaravati期の銀貨の場合、卸元からの購入値にもばらつきがあるようで3,000バーツ程度は当たり前の模様。青銅貨や鉛貨では1,000バーツ程度から。今回は購入前の真偽判断について自分なりの見分け方を紹介する。
最初に本物の製造方法が鋳造か打刻かを考える。大雑把に言って溶かした金属を型に流し込むのが鋳造、元になる金属の上下を型でプレスするが打刻。一般的にアジアでは鋳造、西洋では打刻と言われているが、古代ローマの銅貨は鋳造などと例外もある。ちなみに世界最初の打刻貨幣は現トルコ付近に興ったリディア王国のエレクトロン貨幣。紀元前7世紀の話。ここで生まれた「貨幣を発行する」という概念はその後の古代ローマに伝わった、とは通説。
鋳造であれば表面に小さいながら気泡があり、打刻であれば気泡は発見できない。また金属の精錬技術の発達から気泡のサイズはだんだんと小さくなっていく。贋作を作る側の手抜きから、本来本物は鋳造のものを打刻で、逆に打刻を鋳造で作っている場合があり、この際の真贋判定はそれほど難しくない。
製法が打刻の場合、特に近代の銀製コインの場合、側面の溝の正確さでほとんど判定する。また、表裏全体の彫りが甘い、磨耗が均一でない、音が軽い等々。
鋳造はこれよりやや難しい。金(きん)製なら小学校の理科の教科書に出ていた条痕板を使う。金以外の金属では金色にならない。この方法の採用には勇気がいるが。銀製の場合は銀特有の錆が判断材料。よく磨いてから店頭に並べられることが多いが凹凸の境目に発見できることが多い。。近年作られた安物贋作には側面に同等の磨耗が無かったり、真新しいヤスリの痕があったりする。目の前のものがいつ作られたを考えるのも重要。流通当時に作られたものなら外観からの判定はお手上げだが、必ず金属の含有比率が異なり不自然な錆がある。タイの場合、Sukhothai朝より古い時代の貨幣は未だ研究途上であり、資料にすべての貨幣が網羅されている訳ではないので、資料に出ていないからといって贋作とは判断できないところが面白い。出回っている贋作を作った製作者は何らかの本物をコピーした筈なので、そのようなデザインの本物は存在したものと推測している。
結局はその他の骨董品と同じで、本物と贋作をたくさん見て回るしかないようです。写真は1900年吉林省製の「光緒元寶」銀貨の贋作。表の縁の彫が浅く、裏面に鉄錆が出ており、エッジの溝が一部二重になっている。本来13.10gのところ12.00gしかない。昔知人が2,000バーツで買ってきてくれた。

24.Funan期の銀貨


扶南(Funan)の銀貨。扶南は1世紀から7世紀(6世紀との説も)にかけて、チャオプラヤ川を起源に後にメコン川流域に拡大して栄えた国。オーストロネシア系の民族によるとの説が有力。クメール族との資料もあり。インドと中国の文化的影響を受け、海上交易の中継地点として栄えたとのこと。扶南は約500年続き最後はメコン川上流に興ったChen-La王国によって滅ぼされた。貨幣は金、銀、青銅等の金属で作られたが、タイ国内では銀製が多く発見されるとのこと。直径や厚さは多種あるが重量は7g~10gとのこと。片面にはSun-Sriwatsaと呼ばれる太陽のデザインで、反対側の中央は幸運を表わす儀式用の太鼓という説や館という説がある。左右のデザインには何種類かあり、上部は太陽と月や星が描かれている。当時、貨幣は交易のためのその場限りの両替目的で使われた模様。確かなことは、東南アジアで最初の平面円形コインである、とどの資料にも記載されている。上記写真のものは量目14.7、最大外寸31.7mm。

23.Dvaravati期の銀貨


Dvaravati期は6世紀頃モン族の興した国で、版図は現在のタイから東部・南部を除いた地域との説が有力。『ウィキペディア(Wikipedia)』の「ドヴァーラヴァティー王国」の項目の中に以下のような記載がある。「1884年にSamuel Bealが唐の玄藏が書いた著作の翻訳を行っていた際に文中にあった「堕羅鉢底」を、インド神話の人物であるクリシュナの建設したとされる伝説の都市dvāravaṯī(「港への玄関口である」の意味)の音訳であると考え、これを訳語に採用したのに始まる。」玄藏は、日本では孫悟空の西遊記で有名な唐の高僧で三蔵法師のこと。三蔵とはインド周辺へから経典を持ち帰って漢訳した人への敬称。著作は大唐西域記かと思われる。東側(現ラオス、ベトナム、カンボジア)にはそれ以前のFunan(扶南)王国が並存していた模様で文化経済は密接な繋がりがあった模様。そのため貨幣の分類もかなり曖昧な部分が多い。共通しているのは片面に家のデザインがあり、仏教での「吉祥天の館」を意味しているとのこと。Funan期のものには殆ど旭日のデザインが片面を占めている。一方Dvaravati期は宝貝、壷、雄牛のどれかが描かれている。しかし、ある書物でDvaravati期としている貨幣を別な書物ではFunan期としている、またはその逆が随所に散見される。上記写真がすべてDvaravati期かどうかの確信は持てない。また、保存状態が良すぎており、近年の贋作との疑いも残る。

22.真鍮製Pee


前回に引き続き、賭博場で流通したPeeのうち真鍮製のもの。鉄製のように見えるが、赤錆もなく、少し磨くと銅より黄色っぽい金属が現れる。

21.賭博場で使われた陶貨幣Pee


珍しい貨幣として有名な陶貨。実際には賭博場内でのみ通用させたTokenでPeeと呼ばれている。材質は初期は蝋(ろう)や粘土、後に陶磁、ガラスの他に真鍮で作られた。賭博は路上で行われていたり、現在のカジノのような専用の建物もあり胴元は当然ながら中国からに移民が大半だったとか。ルールは日本のサイコロ半丁と似たようなものだったらしい。この賭博はアユタヤ後期から始まり、Tokenの使用はRamaⅤの時代に禁止された。現在の財務省発行の資料には、1875年8月25日発布通達として約3ヶ月間の猶予期間中の小額貨幣との交換を認めるがそれ以降の売買は罰した、とある。実際には20世紀初頭まで流通していた模様。写真はバンコク市内路上のペン屋で購入したものだが、観光客目当ての贋作が多いと店主曰く。これ自体も贋作と疑っている。陶製の貨幣は世界でも多少流通例があり、日本も終戦直前に準備されていたが流通前に終戦を迎えた話は有名。次回は真鍮製を掲載予定。

20.またまた寄り道 カンボジアの鳥


1847年カンボジアで発行された鳥と呼ばれるもの。左端は通貨単位1Fuangで銀製、右側6枚は2Pe(1/2Fuang)で銅製。この貨幣の特徴は非常に小型であり、左端のもので外寸13.4mmしかない。量目も1.5g。裏面は無印で平面。カンボジアは9世紀後半にアンコール王朝(クメール王朝)が興り、領土拡大や他国からの侵略が繰り返されていた。17世紀・18世紀は隣のタイ(アユタヤ)やベトナムの侵略や干渉が続き、国内は疲弊。1845年に即位したアン・ドゥオン王は、秘密裏にシンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請したが事前にタイに情報が漏れて失敗に終わった話は有名。今回の貨幣はこの頃に発行されたもの。この後、フランスによるインドシナ半島(インドシナ)の植民地化が始まり、次のノロドム王はフランスと交渉しカンボジアはフランスの保護国に。1887年には仏領インドシナに編入された。

19.LanChangのKhanom


タイ東北部LanChang(LanSangとも)時代(14C~18C)のKhanom Khrokと呼ばれているもの。商品代金支払いの都度、対価に見合うよう切断した銀棒や銀貨を集めて両替商が坩堝で溶かしたとの説あり。或いは、最初から重量を決めて量産したらしい。大きさは少なくとも4種類あり。刻印はなし。量目:42.4g 最大害寸28.4mm 銀品位800以上か。

18.バンコクで見つけた開元通寶


バンコク市内の骨董屋や路上で並べているプラ屋では、当然ながら周辺諸国の貨幣も並んでいる。上の写真は中国、唐の始祖の李淵時代の開元通寶(618~626)。銅製。バンコクに流れ着いた経路には、当時の貿易決済用の端数に使われたか、移民によって持ち込まれた可能性が高い。貿易は近年まで貴金属自体の価値のみが信用されたので金や銀が中心。銅貨は国家の権力が及ぶ範囲内でしか流通できなかったため。最近ベトナムで江戸時代の寛永通寶が大量に発見されたこともあり、例外もあるようだが。或いは近年、大量生産された土産用の一つか。上の写真は殆ど錆がなく贋作の可能性あり。渡来銭として日本でも流通した。日本貨幣商協同組合の「日本貨幣カタログ」には次のような説明があります。「渡来銭は、遣唐使、遣隋使などが、中国より持ち帰ったのが始まりと思われ、その多くは平安末期より鎌倉、室町時代にかけて、幕府または民間貿易により輸入された貨幣です。皇朝銭の鋳銭停止以後、寛文10年(1670)の渡来銭使用禁止令迄の永い間、わが国の通貨として広く使用されました。その中には唐、北宋、南宋、明などの時代の貨幣が多くみられます。」なお、実物の画像は次のHPが詳しい。http://sodo.cool.ne.jp/tou/tou.htm

17.ちょっと寄り道 ベトナム


タイ貨幣のなかで丸型平面以外を中心にUPしてきましたが、ネタも折返し地点につき、ここらで周辺国に寄り道を。上の写真は阮朝(1802-1945 Nguyen)開祖の嘉隆帝(1802-1820)が発行したLangと呼ばれているものです。(銀製 量目:35.8g 最大外寸:44.1mm) KRAUSE Sch#118の一つかと。
ところで資料によっては国名を漢字表記している場合があります。基本的には中国からの呼び名ですが一部紹介します。緬甸(ビルマ現ミャンマー)、老檛(ラオス)、真臘(カンボジア)、ベトナムは越南。
映画「戦場に架ける橋」で有名な泰緬鉄道は、この表記を知っているとタイからビルマに敷設した鉄道であることが分かります。日本軍が英軍等の戦時捕虜や近在の住民を徴用し、枕木1本につき人命一人と言われるほど過酷な状況下での使役だったとあります。
ベトナムの貨幣の歴史は次の「中国古銭譜」が重宝します。
http://sodo.cool.ne.jp/index.html資料整理のご苦労がよく分かり頭が下がります。

16.偽物と思われるもの


タイで購入した模造品、偽造品です。上段左はと下段中央はDvaravati期、下段右はKhmer、その他はSrivijayaを手本にしていると思われます。数年前フランスのルーブル美術館の北側に店を構えていたコイン商から聞いた話では、偽造は北朝鮮、台湾、スーダン製が多かったとのこと。余談ながらこのコイン商は若いころジャカルタに居たことがあるユダヤ人で、ヘブライ語は当然ながら英語、仏語、独語、マレー語と多少の日本語が話せました。パリへ行った際は毎回寄るようにしていますが、いつもいろいろな国籍のコレクターで賑わっていました。某英国のコイン関連サイトに、タイでは2004年前後からFake偽物が突然増えたとの記載もあります。しかも表と裏のを適当に組み合わせたFakeまであるとのこと。貨幣は通常、平面円形金属への打刻か或いは型へ溶かした金属を流し込む鋳造という2種類の方法があります。しかし金属の配合や鋳型作りが進歩すると、本来打刻だった貨幣を鋳造という方法で偽造することが容易になります。微細で正確な金型を作れる技術が定着した地域では、貨幣の偽造が増えます。タイもその一つの地域かもしれません。さらに需要が増えることも偽造作りの一因のようです。上記写真のものはそれほどの正確さを要求されるレベルではないので製造コストも安いと考えられます。北京の某骨董屋で聞いた話では、貨幣に限らず複製した骨董品に硫酸をかけて1年程度土に埋めるとのこと。需要があるから即ち商売になるから偽造品を作るのであって、観光客もいない時代にはこんな面倒なことはしなかったと言っていました。最近のバンコクのチャトチャック市場でもDvaravatiデザインの偽造貨幣が突然増えたようです。複数の露天商で同じデザインのものの展示が突然増えていました。経験上、次のような点を真偽の判断にしています。、彫が甘い、側面処理が正確でない、含まれていない筈の金属の錆が浮いている。そのためには普段から博物館等で本物を見て目を肥やす必要があります。また、たくさんの骨董屋や露店を見て回っているうちに、同じ貨幣の同じ箇所に傷があったりします。安い銀製貨幣はチオ尿素系の硫化物除去クリーナーに入れてみることもあります。本物を傷める危険性もありますが。

15.不明です。


バンコクで入手した不明品です。左端は対象範囲を拡大すれば判明するかと。左から二番目は貨幣かどうか判別できず、材質は銅+?。3番目の片面には鳥が二羽、材質は明らかに鉛。右端も貨幣かどうか不明、材質は鉛+錫+?。

14.スコータイ、アユタヤ、トンブリ刻印


前回のAyudhya朝の刻印一覧を見たタイ人が新しい資料を見せてくれました。これまでのものと多少図柄や数に違いがありますが、上面の王朝印(Dynastic Mark, Kingdom Mark)と前面の君主印(Reign Mark)等に分類されています。上から順にSukhothai(1220?-1438)Ayudhya(1350-1767)Thonburi(1767-1782)Chakri(別称Rattanakosin,Rama 1782- )左側がDynastic Mark、右側がReign Mark等。AyudhyaのReign Markの右半分は小型貨幣に使用。

13.Ayudhya時代のPot Duangの刻印


Ayudhya朝(1350-1767)は歴代延べ37人の王が統治。1351年からという説もあり、また36人という資料もあります。これは5代目が2代目と同じで、また13代目が5歳で即位し同年退位したためのようです。いずれにしても420年近く栄え、最大版図も現在のラオス、カンボジアも含んでいました。またヨーロッパ、アラブ、インドと中国、マレー半島、日本等との海外交易の中継点的位置付けに。Sukhothai時代のPod DuangもAyudhya初期には流通させていたが、裁断や刻印がある程度両替商の自由だったとのこと。しかし貿易決済には信用が求められ、必然的にPod Duangをその中心に通貨統一が行われた。貨幣の製造は国家の独占になり、偽造に対する厳しい罰則法も制定された。現タイ財務省資料によれば、最初の偽造には左手の指、二度目は右手の指を裁断、三度目は死刑と布告したとか。AyudhyaのPod DuangはSukhothaiのそれにくらべ小型化されまた足の部分も短くされています。上面にChakraという王朝印、前面にそれぞれの時代の刻印をSukhothai時代より深目に施したと記載あり。上記一覧でどれがChakra印かはだいたい推測できますが、明確に指定された資料が見つからないため、今回は分類を控えます。種類は複数の資料でも同じ記載でした。掲載順は自分が見やすいように並び替えてあります。Sukhothai時代のPod Duangの刻印の種類が資料によって一致しない理由がなんとなく理解できます。

12.ChakriのMet Kanoon




掲載している資料が非常に少ないMet Kanoonというコインです。タイコイン専門書のなかで掲載があったのは未だ1冊しか見つかっていません。しかも写真のみで説明の記載なし。米国KRAUSEのWORLD COINSには19世紀版に金製のみの記載があります。23.1gの1.5Baht、30.8gの2Baht、61.6gの4Bahtの3種類で市場価格は「Rare」扱い。
写真のものはすべて銀製で上段がRamaⅣ、中段がRamaⅢ、下段がRamaⅠとⅢ?最大量目30.1g(中段左)、最大外寸31.2mm(下段右)
参考までにChakri王朝(別名Rattanakosin)の在位は次の通り。
RamaⅠ 1782- 
RamaⅡ 1809-
RamaⅢ 1824-
RamaⅣ 1851-
RamaⅤ 1868-
RamaⅥ 1910-
RamaⅦ 1925-
RamaⅧ 1935-
RamaⅨ 1946-

11.RamaⅣ世鄭明通寶


現Chakri王朝RamaⅣ世(1851-1868)の60歳(1864)記念コイン。資料では金製と銀製があり銀製60gで4Bahtとのこと。発行は限定枚数とのことで、特定の人々だけに贈られた模様。表の鄭明通寶(Tae Meng Tong Po)の鄭明はRamaⅣ世の中国名。当時は海外との貿易が飛躍的に増加したが、金銀の流出やインドルピー、オランダコインとの交換レートで問題が顕在化。
写真は銅製であり、レプリカか模造品(偽物)の可能性あり。量目53.5g、外寸46.8mm(因みに日本の現行10円銅貨は4.5g、23.5mm)

10.Lan Naのトック(Tok)貨幣(その2)


以前の5項の続き、Lan Na時代のTokです。The Treasury Department, Ministry of Finance発行のThe Evolution of Thai Moneyという本からの転載です。銀の他に青銅や黒鉛を混ぜてあり、中には銀含有10%程度のものもあるとのこと。この本にはTok NanやTok Chiangmaiの写真は入っていませんでしたが、他の本には常に入っています。役所発行の本ですが、すべてを掲載した一覧ではないようです。なお、当面、掲載貨幣写真の背景が赤の場合は自分の所有品、白の場合は転載とします。

2006年10月17日火曜日

9.LanChangの蛭状銭(Lat)


前項と同じLanChangの蛭状銭でLatと呼ばれているもの。形状は5種類あり、銀製、銅製あり。(量目:32.3g 最大外寸:54.4mm)

2006年10月5日木曜日

8.LanChangの虎舌銭(Hoi)


ランチャン王朝期(LanChang 14C-18C)のホイと呼ばれているものです。虎の舌に似ていることから別称、虎舌銭とも。
銀製、銅製、大きさも多種あり。
詳細後日に。

2006年9月13日水曜日

7.Chakri時代(1782-)のPot Duangの刻印と種類




現在のチャクリ王朝(1782- Chakri 又はRattanakosin)で流通していたPot Duangの刻印一覧と種類をまとめました。

チャクリ時代のものは、一覧表の左側の王朝刻印(Dynasty Mark)と各国王の刻印が打たれています。
各国王別に発行された種類が灰色で示しています。
Pot DuangはRama5世時代を最後に消え、以降は平面円形だけとなります。

出展はKrauseですが、銀製と金製の重量と価値の関連について、流通時代を考えると多少疑問が残ります。

スコータイ、アユタヤ、トンブリ時代については現在作成中につき出来上がり次第UPの予定。

6.弾丸コイン(Bullet Coin、Pot Duang)の製造方法





鉄砲の弾に似ていることからBullet Coinと呼ばれるPot Duang。
どのようにして作るのか不思議でしたが、タイ語の貨幣専門書にその工程が掲載されていました。
出展はタイ語のため後日英訳して掲載予定。

5.Lan Naのトック(Tok)貨幣 その1

Lan Na時代(14-17C再興は19C)のトック(Tok)という貨幣です。
最大外寸:42.3mm 厚み7.2mm 量目68.3g 銀に黒鉛を混合
これはNum地方で作られたためTok Numとも呼ばれています。

同系としてPak Moo、Dok Mai、Bai Maiがあります。
Dok Maiは、銀に数種の鉱物を混ぜるため表面に花模様の結晶が。Flower Coinとも。
Bai Maiには葉脈状の線があり、別名Leaf Coin。

2006年9月12日火曜日

4.タイの歴史年表





タイの貨幣を並べる場合、どうしても年表を掲載しなければなりません。
時代によってその版図が拡大したり縮小したり、またどこの民族によって興った国であるかも頭に入れておく必要があります。
以前も触れましたが、現在のタイ国民はタイ民族によって成立したスコータイ王朝以降を自分たちの歴史として捉えており、その前の国々についてはかなり無頓着であるように見えます。
よって歴史年表も著者によってバラバラであり、また王朝の名称は発音をそのまま英語表記し現在の役所が呼称統一していないため、著者によって英文表記が違っていますが、これもマイペンライでよろしいかと。

「史実は次の権力者に有利になるように修正される」と考えられています。
在位期間が短かかった「Rama8世(1935-1946)の最後の状況については触れてはならないと言われている」などといった記述を見つけると納得させられます。
また、タイの場合、外侵により徹底的に破壊された歴史が何度かあり、それまで几帳面に作った記録が一夜にして焼失したとも推測されます。
この形状のコインは、どんな理由でどこで幾つ造られたのか、といった基本的な資料が少ないのも、こういった理由なのかなと。
上記年表については、別な説もたくさんあること、ご了解ください。

3.タイといえばPot Duang (Bullet Coin:弾丸コイン)


スコータイ(13C-15C Sukhothai)、アユタヤ(1350-1767 Ayudhya)、トンブリ(1367-1782 Thon Buri)、現在のバンコク王朝(ラタナコーシンRattanakosin、又はチャクラChakra)のうちRama5世までの長期間に亘って使われていたもの。
楕円状の銀を半分に折ってから球状に整え、王調印(Dynastic Mark)や国王印を打刻している。一時期、金製のものあり。
KRAUSE資料では同時代に金製と銀製の重量が同じで、当時同価値となっており、多少疑問あり。
(写真の上段2種は通常Pot Duang群には含めていない)

2006年9月10日日曜日

2.Lan na時代のSycee貨幣






#1と同じLan na時代のSyceeと呼ばれているものです。(外寸:横5.6mm 縦3.75mm 厚15.8mm 量目169.2g 銀品位950以上かと推測)
Lan naは中国南部から流入した人々によって興ったため、中国にも似たような形状があるようです。

2006年9月1日金曜日

1.新規開設にあたり (Lan NaのChiang貨幣)






これは、13世紀から16世紀にかけてタイ北部に栄えたラーンナー(Lan Na)という王国で使われていたチャン(Chiang)と呼ばれる貨幣です。(量目:61.5g 最大外寸:27.1mm 銀品位950以上と推測)

兎に角、この貨幣周辺に関する資料が少なく、苦労してます。

資料によってはこの国は14から17世紀とあり、また国名もLanna Thaiと表記されています。国立コイン博物館では「その他北部の国々」というコーナーに紹介されています。 現在のタイ人は、祖先はタイ族によって作られた国家であって、現在の領土内であっても他の民族によって興った国やそれ以前の国は、過去の一時的なもの、または併合されたもの、と考えているフシがあります。世界を見れば、例えば、アメリカ合衆国の建国200周年という表現も結局のところ同じ視点であって、日本という島国が例外なのだと納得させられます。

この貨幣ばかりかLan Naという国も米国の電話帳型Krauseでも掲載されていないようです。

などと、屁理屈めいたことを書きましたが、要するに、手元にあるコインを見てもらいたい、専門書等の情報あったら教えていただきたい、そのために本プログを開設した次第。今後も暫くタイを中心に掲載の予定ですので、情報お持ちの方、コメントいただきますようお願いします。